クパン (Kupang)
* 人口:約35万人
* 位置:
* 空港:エル・タリ空港 en:El Tari Airport
1613年、ポルトガルのソロル要塞を破壊したオランダはクパンに接触した. 当時クパンと後背地はヘロン人の王が支配していた. ヘロン族は自らの先祖をモルッカ諸島のセラム島出身だと主張した. クパンはティモール島南岸の船舶活動を監視出来る場所だったので、戦略的に整備された. 更に、コイニノ川から清潔な水が確保出来た. オランダとヘロン人は合意したが、オランダのティモール島への関与が足りなかった為に、フローレス島のポルトガル人メスティーソであるトパッセスの影響を受けるようになる.
1640年代、ポルトガルの要塞が建てられた.
1646年、オランダはソロルを設立し、現地の王と再接触した.
1653年1月、オランダのコンコルディア要塞がコイニノ川河口西岸高地に建てられた. クパンはオランダがポルトガルに対抗する為の基地になった.
1655年からオランダは3年連続で敗北し、オランダと同盟を結んだソンバイ人やアマビ人から難民が多数発生し、1658年にはクパンの周囲に居住した. 彼らはヘロン人の土地に小さな王国を創った. ヘロン王は「土地の王」で在り続けたが、オランダの権威に強く依存していた.
1749年以前、ヘロン人の古い領土を除くティモール島はポルトガルが支配していた. しかし、この年にオランダと同盟国がポルトガルを倒し、オランダの影響力はティモール島西部~中部まで及ぶようになった. オランダはヨーロッパ式行政を持ち込み、行政長官と議会を設置した. 原住民との関係は議会で法制化された. クパン行政府はオランダが支配するロテ島、サヴ島、ソロル島も管轄した. 18世紀初頭に入植した中国人商人と職人はすぐに地域の経済に不可欠になった. 様々な人種が集まった. マルディジュケル人はオランダの司法では非白人だった.
地図 - クパン (Kupang)
地図
国 - インドネシア
インドネシアの国旗 |
島嶼国家であるため、その広大な領域に対して陸上の国境線で面しているのは、ティモール島における東ティモール、カリマンタン島(ボルネオ島)におけるマレーシア、ニューギニア島におけるパプアニューギニアの3国だけである. 海を隔てて近接している国家は、パラオ、インド(アンダマン・ニコバル諸島)、フィリピン、シンガポール、オーストラリアなど. 南シナ海南部にあるインドネシア領ナトゥナ諸島はインドシナ半島や領有権主張が競合するスプラトリー諸島と向かい合う.
通貨 / 言語
ISO | 通貨 | シンボル | 有効数字 |
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IDR | ルピア (Indonesian rupiah) | Rp | 2 |